聖書

わたしたちは、どのようにして、聖書を得たのですか? 神がお選びになった人々に、どのように言い、どのように書くかということを、言われました。 聖書の、ペテロの第二の手紙第1章21節に記されてあります。「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」。   

神は、聖書の中にある、すべて知識の源です。 聖書の、テモテへの第二の手紙第3章16節に記されてあります。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」。   

聖書は、わたしたちに、イエス・キリストを紹介します。聖書の、ヘブル人への手紙第1章1-2節に記されてあります。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界が造られた」。   

どのような目的のために、聖書は書かれましたか?  聖書の、ローマ人への手紙第15章4節に記されてあります。「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである」。   

聖書は、信じる者に、何をすることができますか? 聖書の、テモテへの第二の手紙第3章15節に記されてあります。「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」。   

約束された神聖を、理解するのに、どのような条件がありますか? 聖書の、箴言第2章1-6節に記されてあります。「わが子よ、もしあなたが わたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これをもとめ、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである」。   

あなたを心地よくしない部分を、無視しないように。 聖書の、エレミヤ書第26章2節に記されてあります。「「主はこう仰せられる、主の宮の庭にたち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない」。   

あなたが読んで理解出来ない時には、助けのために聖霊が送られます。聖書の、ヨハネによる福音書第16章13-14節に記されてあります。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」。   

聖書は、わたしたちに、生きるべき道を示す、地図です。 聖書の、詩篇第119編19節に記されてあります。「わたしはこの地にあっては寄留者です。あなたの戒めをわたしに隠さないでください」。   

聖書は、わたしたちに、知恵を与えます。聖書の、詩篇第119編99節に記されてあります。「わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります」。   

聖書は、なにかはっきりしない時に、助けを与えます。  聖書の、詩篇第119編105節に記されてあります。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」。   

聖書は、変えることが出来ない神の戒めを、わたしたちにあたえます。聖書の、マタイによる福音書第5章18節に記されてあります。「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」。   

わたしたちは、どのように、神のみ言葉を、学ぶべきでしょうか? 聖書の、イザヤ書第28章9、10節に記されてあります。「彼はだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあかそうとするのか。乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。 使徒行伝第17章11節は、「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受け入れ、果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」と言います。   

イエスは、誰のことを、めぐまれていると、いわれましたか? 聖書の、ルカによる福音書第11章28節に記されてあります。「めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。