すべてのものが神の前で裁かれます。 聖書の、ヨハネの黙示録第20章12節に記されてあります。「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」。

  人々は、彼らのなしたことによって、裁かれます。 聖書の、マタイによる福音書第16章27節に記されてあります。「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」。

  裁きの基準は神の律法です。 聖書の、ヤコブの手紙第2章10-12節に記されてあります。「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」。

  神の審判は公平です。 聖書の、使徒行伝第17章31節に記されてあります。「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

  一人も審判を逃れることができません。 聖書の、コリント人への第二の手紙第5章10節に記されてあります。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」。

  何事も審判から隠すことができません。 聖書の、伝道の書第12章14節に記されてあります。「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」。

  どのような審判の光景がダニエルに与えられましたか? 聖書の、ダニエル書第7章9-10節に記されてあります。「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物がひらかれた」。

  審判の法廷では、キリストがわたしたちの弁護者です。 聖書の、ヨハネの第一の手紙第2章1節に記されてあります。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」。

  何の証拠を弁護者はわたしたちのために陳述しますか? 聖書の、ヨハネの黙示録第3章5節に記されてあります。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう」。